特別寄稿
私の講義の試験問題 ― ゼロ・リスクの誘惑 ―


佐藤雄也
中央大学大学院
公共政策研究科・理工学部 教授
佐藤 雄也
プロフィール
1942年 東京都生まれ
1973年 東北大学大学院理学研究科博士課程終了。
      理学博士
1973年 環境省入省
2001年 (社)土壌環境センター専務理事
2005年 中央大学大学院公共政策研究科教授・理工学部教授
      中央環境審議会土壌農薬部会委員等

1. どんな試験問題か
  大学院での筆者の講義「リスク管理」の期末試験問題の一つを以下に紹介する。もちろん、講義で教えたから出題したのである。
  「問:先進国においては、一般に発がん物質は、当該発がん物質を生涯摂取し続けた場合に、発がんリスクが10万人に1人発生する程度に摂取量を規制しているが、消費者から、もし、“がんになったら自分にとっては100%ではないですか、10万人に1人といっても、とても安心できない”といわれたら、どのように説明するか、述べよ。」
  講義を始める前に、この質問をすると学生たちは、消費者の気持ちも分からなくもないとか、説明に戸惑いを示します。それでもかまわず順番に一人ひとりの意見を聞いて、それに対して予想される消費者の反論を披露すると、学生たちは一体何て消費者に説明すれば良いのだろうと、答えを知りたい一心に、講義を聞く気持ちになってしまうわけである。
  皆さんの中にも、学生たちと同じ思いをされている方がおられても不思議ではありません。実社会では同じような質問がよくあるのです。たとえば、BSE汚染が心配される米国産牛肉の輸入問題で、政府の食品安全委員会が全国各地で説明会を開催していますが、どの会場でも必ず、“私だけは、その一人に当たって変異型クロイツフェルト・ヤコブ病にならないようにしてほしい”といった類の質問を受けるそうです。
  もっと驚いたことに、発がんリスクの研究者が、一般市民から同様な質問をされて、どのように答えたらよいのか困った、といっておりました。発がんリスクの研究者は病理学の専門家であっても、必ずしもリスク管理の専門家とは限らないからなのかもしれません。学生たちが戸惑うのも当然です。

2. 講義前の学生たちの答え
  講義前に学生たちが彼らなりに考えた末の答えをいくつか紹介しましょう。彼らがなんとか消費者を安心させたいという気持ちが伝わってきます。末尾のカッコ<>内は予想される消費者の反論です。
(1)発がんの原因は複合的であるため、必ずしも発がん物質が直接的な原因と断定することは
   出来ない。食生活のバランスや適度な運動習慣を実践することによって、がんを防ぐことの
   方が、当該発がん物質を避けるより効率的であり、かつ発がんリスクを下げる可能性があ
   る、と説明する。<基準を決めた意味がないじゃないですか。>
(2)リスクを避けるために人間ドックに行ったり、食べ物に気を使うなどの未然防止対策を行うこ
   とが大切である、と説明する。<人間ドックは早期発見のためであり、防止のためではない。
   食べ物に気を使うだけで防げるなら、がん患者はいなくなるはずではないか。>
(3)一生の間に10万人中1人ががんになるようなリスクを1年間に直すと、人生70年とすれば、
   1/70で10万人につき0.014人になる。一方、日本で、がんで死亡する人数は、毎年人口10
   万人あたり254人なので、当該発がん物質による発がんリスクは極めて小さいといえる。ま
   た、自動車事故による死亡確率(人口10万人あたり9人)よりはるかに低いから問題ない。
   <前段は、それでも生涯で10万人に1人は、がんになるのでしょ。後段は、自動車事故並
   みに発がんしても良いということですか。>
  どうも学生たちの意に反して、安心させるつもりの説明が却って消費者の不安を増大させてしまいそうです。

3. 正解はどうか
  さて皆さんは、どのような答を準備していますか。“ゼロ・リスク”と“リスクのトレード・オフ”の2つのキーワードを使って説明すれば、正解です。
  自分だけは、がんにならないようにするということは、発がんリスクをゼロにすることです。そのためには、当該発がん物質を一切、摂取しないようにすれば希望が実現します。自分でその気になれば簡単にできそうに思えますが、実は、大変難しいことなのです。例えば、塩素系消毒剤で消毒された水道水を一切、口にしないようにするとなると、外出先で水道水を使った飲食物は口にできなくなります。それは大変だから、いっそのこと塩素系消毒剤の使用を法律で禁止すれば、そんな不便に耐える必要がなくなります。ところが、消毒性能とかコストなどの面で当該発がん物質に替わりうる消毒剤が無いので、利便性を考慮して法律で(つまり国民の合意を得て)規制しながら使用しているわけです。もちろん、各自が当該発がん物質をなるべく摂取しないようにして、発がんリスクの確率を10万人に1人よりさらに下げる努力をすることは大変大切なことです。
  先に“利便性を考慮して”といいましたが、利便性が悪くなることもリスクのひとつです。ゼロ・リスクの実現を困難にしているのは、このように、あるリスクを減らそうとすると、別の新たなリスクが増えるからです。これを“リスクのトレード・オフ”の関係といいます。例えば、発がんのリスクをゼロにするために水道水の塩素消毒を止めると伝染病が発生して、10万人に1人どころか、多数の死者が発生しかねない事態になります。実際には、発がん確率を最小限に抑えるため、伝染病が発生しないぎりぎりの低濃度の塩素系消毒剤で消毒しています。
  リスクの確率をさらに下げるために個人レベルで、また社会レベルで、できることから直ちに実行することはとても大切なことです。しかし、リスクをゼロ(使用禁止)にするためには、リスクのトレード・オフについても考える必要があります。

4. 及第の答案でも世間が納得するとはかぎらない
  以上のように説明すれば私の試験の答案としては及第です。しかし、このように説明すれば、消費者が納得するか、というと必ずしも納得しません。多くの場合、“理屈では先生の言うとおりかもしれないけれど、だからといって私は安心できません”という反応が返ってきます。私も“安心してください”とまで言うつもりはありませんが、何をするにもリスクが伴うので、リスクをゼロにしようとすれば何もできなくなります。ゼロ・リスクの実現は非現実的なのです、ということを理解していただきたいのです。なかなか理解が得られない理由は簡単です。このような講義を大学などで教えてこなかったからです。
  あるリスク(例えば、発がん)を真剣に心配すると、誰でもそのリスクの原因を取り除こうと考えます。そして水道水の消毒に塩素系消毒剤の使用を一切禁止することに向けて、議論が高まります。もはや伝染病発生リスクとのトレード・オフのことが見えなくなります。発がんリスクの原因(塩素系消毒剤)を全部は取り除かないで、伝染病の病原菌を滅菌する程度までは許されるべきだなどと発言すると、リスク対策(発がん予防対策)に真剣でないと思われかねない雰囲気になることがあります。
  ゼロ・リスクの主張は、時として反論し難い正論としてまかり通るところに、別のリスクを招きかねない危険性があります。土壌汚染の修復現場においてもゼロ・リスクの主張が過剰対策を迫り、他方で対策の急がれるサイトが過剰対策に要する費用が足りないために塩漬けになっているような状況が懸念されるのであります。