研 究 所 紹 介

独立行政法人 農業環境技術研究所
化学環境部 栄養塩類研究グループ

化学環境部長 今井 秀夫


  硝酸性チッソ及び亜硝酸性チッソが、要監視項目から環境基準項目に格上げされ、農耕地から公共水域に流出する硝酸性窒素等富栄養化塩類の規制が一層強化された。また、国際的な動きとして、硝酸性及び亜硝酸性窒素の人体への直接及び間接影響、環境への影響拡大を受けてWHO(World Health Organization)で規制強化の方向で基準値の見直しが検討されている。このような国内外の栄養塩類に対する関心の高まりに対処するため、平成13年4月1日に独立行政法人農業環境技術研究所が正式に発足するのに合わせて、化学環境部に栄養塩類研究グループが設置された。このグループは、旧農水省農業環境技術研究所の水質管理科を中心に土壌管理科及び肥料動態科の一部を取り込んで組織された。一筆の水田・畑から日本中の代表的な流域における硝酸性窒素や燐酸等栄養塩類の動態や流出過程の解明、さらにそれらの環境に対する影響を評価し、適切な管理指針を策定する。

栄養塩類研究グループの研究活動
  このグループの研究目標は、農業環境技術研究所が研究を推進する上で、最も重要なコンセプトである“農業生態系の持つ自然循環機能”の有効利用による、硝酸性窒素等の環境負荷物質の動態を解明すると共にそれらを制御・削減する技術を開発することである。具体的には、平成13年度から17年度までの5年間を第1次中期計画期間とし、研究目標「土壌・水系における硝酸性窒素等の流出過程を解明するとともに、中規模流域を対象とした硝酸性窒素の負荷流出予測モデルを開発する」を設定して研究の推進を図っている。中期計画を期間内に効率よく達成するために、下記に示す4つの小課題を設定している。
  (1)硝酸性窒素等の土層内移動の解明、(2)各種資材等の評価による負荷軽減技術の開発、(3)硝酸性窒素の中規模流域におけるモニタリング手法の開発、(4)硝酸性窒素の負荷流失予測モデルの中規模流域への適用。

  ここであまり聞きなれない重要なコンセプト“農業生態系の持つ自然循環機能”を説明しておく必要がある。文字どおり自然中(農業環境中)を硝酸性窒素のような環境負荷物質が循環している間に除去され、農業環境が浄化される現象を自然循環機能と呼んでいる。その代表的なものは、土壌微生物による脱窒素反応である。台地上にある茶畑や畜産団地などから排出される高濃度の硝酸性窒素を含んだ水が、公共水域に流出する前に低地に分布する水田や沼沢地等で脱窒され、40−50ppmあった窒素濃度が1ppm以下まで下がる現象は珍しいことではない。静岡、茨城、栃木などで行われた現地試験では、植物による吸収量は多いものでも、高々200−300kg/haであるのに比べて、脱窒による窒素除去量はその10倍の2−3トン/haに上る結果が得られている。また、もうひとつの富栄養化物質である燐酸も、わが国に広く分布する黒ボク土壌に吸着・固定され、農耕地からの流出水中には、殆ど含まれていない。このように微生物による代謝分解や植物による吸収・固定・代謝、さらに食物連鎖を通して物質の形態変化や貯蔵、分解、代謝等々環境負荷物質が自然中を循環する間に物理化学的、あるいは生物化学的な変化を受け、環境に対する影響が軽減される一連の作用を総称して、自然循環機能と呼んでいる。
  栄養塩類グループでは、この自然循環機能の定量化とメカニズムの解明を精力的に行い、この機能を現地で最大限に発揮させることにより、環境にやさしく、持続可能な環境負荷物質の削減技術の開発を試みている。

栄養塩類グループの研究の広がり
  このグループが担当する研究対象は、一握りの土壌の性質を詳細に調べることから、流域全体の硝酸性窒素等の流出予測モデルを作製し、流域の管理指針を策出するまで広範囲に亘っている。しかしながら、それぞれの研究が単独で行われているのではなく、流域の管理指針の策定という最終目標に向かって互いに協力している。例えば、黒ボク畑土壌による硝酸性窒素の吸着と土壌中の移動遅延要因の研究は、肥料や用水等から黒ボク畑に負荷された硝酸性窒素が水域に排出される割合と時間を正確に把握しようとするものである。作物や土壌による硝酸性窒素の吸収・吸着量は、作物種や土壌の種類、気候条件、立地条件など多くの要因により影響を受ける。さらに、その影響の大小が窒素形態の変化や脱窒反応に二次的、三次的に影響を及ぼし排出量と排出速度を規制する。ここで取り扱う黒ボク土壌は、火山灰土壌の一種で陰イオンである硝酸性窒素を吸着する特殊な性質を有するが、わが国に広く分布し農業上重要な役割を演じている。諸外国では、ハワイやニューディランドを除けばほとんど存在しない。

  このように、環境負荷物質の循環に関して黒ボク土壌が、農耕地土壌の3割弱、畑土壌では5割弱を占める上に、アジアモンスーン地帯に位置し、稲作が農業の根幹に据えられているわが国と、自然循環機能を考慮していない欧米諸国とを同じレベルで論議するのは意味がない。従って、アメリカやEUで開発された流域を対象とした環境負荷物質の流出モデルをそのまま、わが国に適用すると流出量の過大評価や流出時間に大きなずれを生じ、管理指針の策定には使えない。そこで同グループは、アメダスデータ、地形図、土壌図、作付け体系、国土数値情報、国土地理院電子地図情報、農業センサス、市町村区界図、さらに農業資材の投入量、土壌中の窒素の動態、脱窒量等々から流域の窒素流出に関与する100以上の項目よりなるデータベースを作成し、それを基に流域を対象にした精緻な硝酸性窒素負荷の流出予測モデルを開発した。すでに、茨城県霞ヶ浦流域に流入する全ての河川の水質データをもとにモデルの検証を行ったところ硝酸性窒素の農耕地から水域への流出量及び流出時期を極めて精度よく予測できることが確認された。現在、愛知県の矢作川流域にこのモデルを適用し、同様な成果を上げている。モデルの信頼性が確認されたので、本年より日本全国の代表的な流域にこのモデルを適用するために関係機関と協力していく予定である。同グループでは、さらにモデルの信頼性を向上させ、流域の管理をより的確に行うために、規模の異なる流域に対する水質モニタリング手法の開発や農耕地から水域に負荷物質を出さないための硝酸性窒素を吸着する資材の開発、脱窒素等負荷物質の削減技術の開発についても精力的に研究を進めている。また、脱窒素反応の過程で地球温暖化ガスである亜酸化窒素等の発生が危惧されるので、発生のメカニズムや発生量についても研究を行っている。


研究の体制と今後の展望
  環境化学部栄養塩類研究グループは、4つの研究ユニットから構成されている。土壌中の詳細な水や栄養塩類の流れを物理化学的側面から研究する土壌物理ユニット、地下水や河川水の動態、流量変動、水質のモニタリング手法の開発を担当している水動態ユニット、流域の水質変動予測モデルを開発している水質保全ユニット、それに各種農業資材等から農耕地へ負荷される環境負荷物質の実態把握や削減技術を開発している養分動態ユニットの4研究ユニットをグループ長が統率している。グループ長以下、総勢15名で研究に当たっているが、常時複数の研究員を様々な形で外部から受け入れている。

  農業環境中における硝酸性窒素等の環境負荷物質の循環は、畑や田んぼに注目するだけでは不十分で、その上流側である森林、また、下流側にある水域を含めた系全体としての評価が重要である。下流域にある湾内で養殖されている牡蛎や海苔が、上流側の森林の伐採や農耕地からの肥料成分の流出により、壊滅状態に陥った等の報道は、まだ記憶に新しい。また、湾内に流入する河川にダムが建設されたために珪素の負荷量が激減し、珪藻を一次生産者とする食物連鎖系が成立しなくなった例も報告されている。森林、農耕地、水域がそれぞれ単独で存在するのではなく、水や物質の循環を通して、互いに深くかかわりを持っている。現在、農業環境技術研究所を中心に、森林総合研究所、水産研究所、大学、県農業試験場などが協力して、「森林・農地・水域を通ずる自然循環機能の高度な利用技術の開発」プロジェクトを愛知県の矢作川流域を対象に行っている。このプロジェクトでは、森林−農地−水域を繋ぐ硝酸性窒素の循環を解明し、その環境に及ぼす影響を評価する。その際に、それぞれのコンポーネントと系全体として持っている自然循環機能を的確に評価し、その機能を最大限に発揮させる技術を開発する。上述のように、森林、農地、水域というコンポーネントが互いに作用−反作用を及ぼしあいながら、物質循環系を形成していく。このプロジェクトには、栄養塩類研究グループの全てのユニットが参画し、中心的役割を果たしている。今後、ますますこのプロジェクトのような系全体を取り扱う研究が、環境研究の中心になると思われる。昨年3月に閣議決定された科学技術基本計画においても、環境が重点研究分野の一つに選ばれ、自然共生型社会の構築や化学物質のリスク評価等栄養塩類研究グループに関連のある研究テーマが掲げられている。幸い、農業環境技術研究所は、多くの専門領域を有し、化学環境部内にもダイオキシン、内分泌撹乱物質、重金属等を研究するグループや微生物や植物を用いた環境修復技術を研究するグループなどが配置されている。これらのグループと連携をとりながら農業環境を取り巻く重要な課題に果敢にチャレンジしていくつもりである。