土壌環境センターから、土壌に関することなら何でもとの原稿依頼のお話しがあり、感想ということならとお引き受けしたものの、「土壌」とあらためて反芻してみるのだが、浮かんでこない。ふと、直感的に浮かんだのが、小林秀雄の「ドストエフスキーの生活」の序(歴史について)の冒頭の一節に引用されている、断片であった。
『例へば、かういふ言葉がある。「最後に、土くれが少しばかり、頭の上にばら撒かれ、凡ては永久に過ぎ去る」と。當たり前のことだと僕らは言ふ。だが、誰かは、それは確かパスカルの「レ・パンセ」のなかにある文句だ、と言ふだろう。當たり前のことを當たり前の人間が語っても始まらないと見える。パスカルは當たり前の事を言ふのに色々非凡な工夫を凝らしたに違ひない。そして確かに僕等は、彼の非凡な工夫に驚いてるので、彼の語る當たり前な真理に今更驚いてゐるのではない。驚いても始まらぬと肝に銘じてゐるからだ。處で、又、パスカルがどんな工夫を廻らさうと、彼の工夫なぞには全く関係なく、凡ては永久に過ぎ去るといふ事は何か驚くべき事ではないだろうか。
言葉を曖昧にしてゐるわけではない。歴史の問題は、まさしくかういふ人間の置かれた曖昧な事態のうちに生じ、これを抜け出ることが出来ずにゐるように思はれる。』
あらためて読み直してみると、頭上に土くれがばら撒かれるという、土壌とは何の関係もない歴史についての彼の思いであるが、わたしの脳裏にはこの一節が先ず思い浮かんだと言うだけのことである。
土壌とは、もともと岩石が風化してできたものであるが、地殻の最上層にある自然物で、岩石の風化物に生物の遺体やその分解物などの有機物が混じって生成したものである。
「土の話U(土質工学会編)」には、土壌について以下の記述がある。「岩石が風化すると、細かい砂や粘土の集まり(風化砕屑物)になる。さらに、これに植物の遺体が加わり、微生物やモグラやミミズなどの地中の生物の働きが加わり、そのうえ、気候などの環境の影響を受けて土(土壌)が生まれる。それには、数千年以上の長い時間を必要とし、その意味で土は歴史的な産物だと言える。」
こういう目で地球の表面を形成している土壌を眺めると、何ともいえぬ感慨が込み上げてくる。それは、すべてを包み込み、生きとし生けるものを支え育む大いなる基盤であり、環境を形成する極めて重要な存在であることを認識し直すことのようにも思える。
土壌汚染対策法の成立は、我が国の典型七公害の最後の法制化として、環境対策のエポックとして記されるものであるが、土壌環境保全の法制化は、環境の対象の多くが公共財であるのに対し、土地が私有財であるところに難しさがあるのかもしれない。たしかに本法は、土壌環境保全の視点から見れば、調査契機が限定されすぎているのではないかと感ずるところもあるが、法制化により日本の土壌環境問題が大きく動き出す契機になることはたしかで、それらを見極めながら必要な見直しということになるのだろうと思う。我々自治体の担当者にとっては、地域住民の健康保護のための制度として如何に運用し、活用するかにかかっていると思っている。
土壌の話とは少し逸れるが、数十年も前のことになるがある小さな環境講演会において、人口問題の話を聞いた。まだ、世界の人口が40億人程の時期のことである。
ここで、1万年前の地球の人口は500万人程度であったこと、紀元元年は2億人、1630年5億人、1850年10億人、1930年20億人、1975年には40億人に、そして更に加速度的に増加していることを聞いてショックを受けた。その後、人口問題が環境問題などすべての根源であり、しかも途轍もない難問であるということを意識するようになった。
1999年に地球の人口は60億人を超えた。そして、2050年には90億人に達するといわれている。
地球の食糧生産量から推定すれば、いつか地球上に存在し得る人口の限界に達するはずで、その先は空前の悲劇が地上を覆い尽くすことになるのであろうか。それは何億、何十億人の餓死者に留まらず、その洪水は、先進諸国にも及ぶことになろう。
恐ろしい想像であるが、地球は係る人間の悲劇とは無関係に存在し続け、そして、数千年以上の長い時間を経て岩石は風化し、土壌になる。しかし、人間は、今後も意識する存在として、この地球上に生き延び続ける術を探っていかなければならない。
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